塩川文麟

松村呉春松村景文塩川文麟幸野楳嶺竹内栖鳳岡本亮彦

字子温 号雲章 通称圖書(ずしょ)

生い立ち

 享和元年(1801年)、京都の安井宮に使える者(久保遠州守と称したと言われる)の子として生まれる。

 幼い頃、両親を失い、久保の姓を他にゆずって、家系元来の塩川に復し、安井宮門跡の侍臣となったが、絵が好きで、門主が原在中に絵を学ぶのを見ながら自らも励んでいるうちに認められ、主命に従って岡本豊彦の門に入り、やがて安井門跡の御抱絵師となるに至る。

 なお、塩川家は、摂津国、越前国鯖江(現在の福井県鯖江市)等に縁者をもつ家系であった。

画風

 伝統的な四条派の技法を受け継ぎながら、明治に入ってからは西洋の画風も積極的に取り入れ、掛軸のように縦長の画面よりも、横長の画面にその特色を見ることが出来る。

 文麟は智にたけた技巧派肌の画家であり、風景画が中心であったが、花鳥画といい何でもこなし、画域が非常に広かった。

 師である豊彦が暮景にひたりきって、もののあわれを味わうと言う画風に対して、文麟はもっと傍観的で、きびきびとした画風である。文麟にとっては抒情的であるよりも、むしろ変化に富んでいて、眼を楽しませる要素の強い方が好ましかったようである。

 また、文麟のそのような画風の影響は、明治から現代の画壇にまで見ることが出来る。

エピソード

 幅広い画風を持ち、豊彦の師である松村呉春が、たまたま文麟の絵を見る機会があった時、これを賞めて豊彦に、「おまえは良い弟子を持ったものだ、この者は必ず大成するぞ」と語ったという。このように文麟は、早くから嘱望されていて、優等生的なところや包容力の大きいところが多分にあったようである。

 父に続いて心情的な尊王攘夷派であり、薩摩藩士とも交流があったが、それを表面に出すことはあまりなく、安政の大獄の頃には、「余は画工漫(みだり)に本文を謬(あやま)り、刀鋸に触るるを智となさず」と言って、近江の日野(現在の日野町 (滋賀県))に引きこもり、用に応じて京都に出るといった生活を送った。

 また、師の豊彦には元来一徹で怒りっぽく、意にそわないことがあると家内の者に憤怒してやまないような性格があったが、そんな時に文麟が来てなだめると、文麟の意に従って怒るのをやめた場合がよくあったという。

弟子・門下生

略歴

(原田平作著「幕末明治 京洛の画人たち」(京都新聞社刊)より抜粋・引用)

代表作

参考文献