岡本豊彦 墓碑 - 四条派絵師 岡本豊彦

墓碑

墓碑文  墓碑移築  六波羅蜜寺の現在の墓  ホーム


弘化二年(1845)七月十一日、73歳で豊彦は歿した。

 画家として、教育者として近世から近代にかけての日本画壇に貢献した豊彦は、弘化二年(一八四五)七月十一日、大和旅行中に病没した。享年七十三歳。
 なお最後に、京都六波羅蜜寺に建てられた墓碑が、本年五月、生地教善寺に移されたことを記しておく。
岡山県立博物館 守安 収

 文久元年(1861)七月豊彦の17回忌に弟子達(澄神社社友)により京都、六波羅密寺に墓が建立された。

この墓碑を三方から囲んで大姉とつくもの三基(初室、継室、三室)、童女とつくもの四基、童子とつくもの一基がある。



六波羅蜜寺に建立された墓
六波羅蜜寺に建立された墓
(昭和58年頃に撮影)




墓碑文

墓碑の裏に刻まれた文章には豊彦の絵に対する姿勢を「澄神社」の社友を代表して「羽倉信」が書いている。

墓碑各面

墓碑の各面
(井上雄風編「続 拓本収覧 吉備と周辺の碑」より)


花立て裏の刻名

花立て裏の刻名
(井上雄風編「続 拓本収覧 吉備と周辺の碑」より)


墓碑文

墓碑文


墓碑文 訳


 岡本葒村先生ノ墓

 先生ノ諱ハ豊彦、字ハ子彦、
 葒村卜号シテオラレタ。家ニ、ゴ自分デナズケラレタ澄神鯉嵪トイウ扁額ヲカケテオラレタ。
 岡本氏ハモトモト備中ノ人デ、幼イトキカラ聡明デ、生レツキ絵ガ好キナヨウデアツタ。ハジメ郷里ニオラレタトキハ、ソノコロ、ソノアタリニヨク来ラレタ法橋黒田綾山先生ニ、文人画ヲ学バレタヨウデアル。シカシソノコロ、京都デハ円山応挙、松村呉春両先生ノ画風ガサカンデアツタノデ、豊彦先生ハ京都二遊学シ、呉春先生ニ入門シテ、ツイニハソノ画業ヲ完成セラレタノデアル。勉学ノ間、先生ハ沈潜スルコト多年、練磨日二日熟シ、幾度カ画風ヲ換エテエノ苦心ノウエ、画眼一新シテ、ツイニ大家トナラレタ。豊彦先生ハ、格別ノ門閥トテナイノニ、応挙先生ノアトヲウケテ、シバシバ宮中ノ御用ヲ仰セツカリ、屏風絵ヤ襖絵、マタ扇面画ヲカイテオサメラレタトイウ。
 豊彦先生、イツカ話シテオラレタガ、「絵ノイチバン大切ナモノハ、表面的ナ形似ニアルノデハナイ、カクレタ神韻ニアルノダ。タトエ彩色シナクテモ、ソノ神韻ガ伝ツテクルヨウデナケレバナラナイ。日本ノ画家ハ、ムカシカラ名人上手トイワレテイルヒトデモ、大方ハ中国ノ唐宋時代ノ様式ダケマネテイテ、イツマデモソノ影響カラヌケデルコトガデキズ、自分ノ道トイウモノヲモツタ画家ハホントニ数エルホドシカナイ」
 「日本ノ画家ガ、中国ノ唐宋時代ノ形式ヤ、元明時代ノ風ヲナラツテモ、ソノ外形的ナモノニトラワレズ、ヨイモノハトリ、ワルイモノハ悪イトシテ捨テテ、新様式ダカラト飛ビツカズ、マタ旧様式ダカラト卑下セズ、ソノ様式が旧式デモ生キイキト生命アレバ、ソレハ真実ノ画家トイエルノデハナイカ」ト。
 豊彦先生ノ教ヲ味ツテミルノニ、ソノ根本ハ精神ノ問題ダトイウコトニアルヨウデアル。ソウスルト、先生ノ絵ニアラワレタモノモ、ホボ想像デキルトイウモノデアロウ。私ハハジメノコロ、豊彦先生ト御眤懇デナカッタガ、晩年ニハ非常ニオ親シクサセテイタダイテ、シバシバソノオ話ヲ聞クコトガデキタノデアルガ、先生ノ人格ヲ知り、ソノ画ヲ見レバ、先生ヲタダニ、写生ノ名人トノミスルコトハ誤リデハナイダロウカ。
 豊彦先生ハ、安永二年(一七七三)七月八日ノオ生レデ、弘化二年(一八四五)七月十一日ナクナラレタ。七十三才。洛東ノ六波羅密寺ニオ葬リシタ。
 奥様ノ佐々井氏ハ先生ヨリ先ニ文化六年十月二日ナクナリ、後妻ノ太田氏モマタ先ニナクナツテオラレル。三番目ノ奥様ハ、(山城乙訓郡中山村)木村氏カラキテオラレル。オ子供サマハ、男ヒトリ女五人アツタガ、ミナ幼クシテ死ンデオラレナイノデ、門弟ノ小栗亮彦ガソノ御家名ヲツグコトニナツタ。医者ノ元沖ニ依頼シテ、幽堂(オタマヤ)ニ讃シテモラウ。
讃銘ニ
  ソノ規模ノ宏大ヨ、ソレ正トヨバズシテナンゾヤ
  ソノ格調ノ変化ヨ、ソレ奇トヨバズシテナンゾヤ
  ソノ意匠ノ精微ヨ、ソレ妙トヨバズシテナンゾヤ
  ソノ天真ノ自在ヨ、ソレ絶トヨバスシテナンゾヤ
文久元年七月
澄神社ノ社友 建ツ
羽倉  信  書ク

北野正男氏訳




昭和59年(1984)に、豊彦の墓は六波羅蜜寺から、豊彦の生地である倉敷市教善寺へ移築された。


以下、この項の写真・文は、井上雄風編「続 拓本収覧 吉備と周辺の碑」より


教善寺内に移築された豊彦の墓

教善寺内に移築された豊彦の墓



画人岡本豊彦の墓を郷土に移築保存

 岡本豊彦は安永二年(一七七三)倉敷市水江に出生。
 弘化二年(一八四五)七月十一日七十三歳、京都に没。ほゞ百六十年前の偉大な四条派の画家でありました。
 墓は京都東山区松原通大和大路の名刹六波羅密寺の墓地にありますが、昨年十一月、後裔尾崎氏(弘康、左知子)等によって元の位置に新しく再建され、旧来の墓標はこのたび倉敷市船倉町の教善寺(住職 千葉保夫氏)墓地に移築保存されることになり昨二十一日建立されました。
 豊彦は少年時代、玉島の黒田綾山のもとで絵を学び、青年期には大阪の福原五岳、更に上落して有名な松村呉春に師事して四条派の奥義を極め呉春の弟景文と並んで四条派の双壁と称せられたほど傑出。更に研讃を重ねて画眼一新、一家を為し、雅号葒村、澄神、鯉嵪と称し、一門は澄神社と名づけられた。その門には塩川文麟、柴田是真、古市金峨等々、日本画壇に多くの有名人を育成し、文麟の門人幸野梅嶺、続いて菊池芳文、竹内栖鳳達が明治画壇に雄飛するに至った実に大先覚者でありました。
 今より二百十年の昔、豊彦が誕生した縁の教善寺に、この度彼の墓標が移築されたことは、真に錦を飾ったも同然であり、市民にとっても感激の至りであります。この事は社会教育、青少年教育のために何よりの師表であり、貴重な郷土史の資料でありましょう。墓標そのものは左程目立ちませんが、その碑銘の撰文は日本簑刻界の巨匠羽倉可亭。建立者は一門の澄神社友であるから門人達が師恩にむくいた墓標であり、当市に類のない石造文化財が寄せられ、よろこばしい次第である。

昭和五十九年五月二十二日 岡本豊彦顕彰会 世話役 井 上 雄 風

教善寺移築おひもとき

教善寺移築おひもとき




六波羅蜜寺の現在の墓

移築後、六波羅蜜寺には、豊彦の墓と、岡本家先祖代々の墓の2基が新築された。




昭和59年移築後、新築された豊彦の墓
(京都 六波羅蜜寺内)


ページのトップへ